イエスは必ず死者の中から復活されることになっている(ヨハネ20・9a)
ご復活祭、おめでとうございます。
コロナは、私たちの一般的な生活ばかりでなく信仰生活にも影響を及ぼしています。コロナの影響で、たくさんの人は感染したり、亡くなったり、失業したりしています。コロナ禍の中で、私たちの共同体は全世界のカトリック教会と共に復活祭をお祝いします。言い換えれば、悲しみや心配や絶望の中で、私たちは信仰生活を生きて、復活祭をお祝いすることが出来ます。
そのような状況の中でも、私たちは苦しみと悲しみと死との暗闇に打ち勝ったイエスを確信して、歩んで行きます。ですから、コロナに直面している私たちは絶望に落ちるのではなく、復活されたイエスにおける希望を見いだすことが出来るのではないでしょうか。
聖パウロは次のように述べています。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(一コリント15・14)パウロが述べられたように、私たちの信仰は復活されたイエスにおける根拠があるのです。使徒的勧告『キリストは生きている』の中で、教皇フランシスコはイエスについて次のように強調しています。「イエスは生きています。イエスは復活されたキリストであり、超自然の活力に満ちる方であり、無制限の光を着ている方である。」
コロナのせいで、私たちの生活のリズムが変えられてしまいました。頻繁に親しい人に会えなくなったり、ミサに与れなくなったりしました。ときどき、私たちの信仰が揺れてしまったことがあるでしょう。
イエスの受難と死に直面した弟子たちは恐れて逃げてしまいました。弟子たちのリーダーであるペトロさえも三度イエスを知らないと言っていました(マタイ26・75)。絶望に落ちた弟子たちのイエスに置く信仰も揺れていました。しかし、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ以外、他の弟子たちは復活されたイエスのために、困難に直面しても命をささげようとしました。なぜ、彼らはそのようなことが出来たのか。
まず、エルサレムへ行き、苦しみを受ける前に、弟子たちの信仰を強めるために、イエスはペトロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られました。そこで、弟子たちの目の前でイエスは変容されました(マルコ9・2)。そして、死者の中から復活された後、イエスは何回も弟子たちに現れて、彼らに心の平和をもたらし、彼らの信仰を強められました。彼らに現れる度に、イエスは「あなたがたに平和があるように」と挨拶されました。イエスのもたらされた平和のおかげで、弟子たちは恐れと絶望の中から出て、復活されたイエスを宣べ伝えていました。
福音宣教の協力者を選ぶに当たり、イエスは十二人の弟子を選ばれました。しかし、復活してから、イエスは選ばれた十二人の弟子ではなく、女性であるマグダラのマリアに最初に現れました。つまり、イエスは男性ばかりでなく、女性にも福音宣教の使命に与るように呼びかけておられるのです。
イエスの受難と死を目撃した弟子たちは恐れや絶望に落ちましたが、復活されたイエスに出会えてから、希望を見いだし、心の扉を開き、恐れず宣教のために出かけて行きました。復活されたイエスは恐れと絶望を抱える弟子たちに大きな希望をもたらし、勇気のある心を与えられました。
教皇フランシスコは3月5日から8日まで、イラクを訪問されました。コロナに感染し、命をかけることが予想されても、教皇様はイラクのキリスト者を励まし、彼らのイエスに置く信仰を強め、平和に導く諸宗教対話をするために、イラクへ行くことにされました。教皇様は復活されたイエスを確信しなければ、その旅をしなかったに違いありません。
コロナ禍から出て来た不安や悲しみや心配などがありますが、私たちは復活祭をお祝いする雰囲気の中で復活されたイエスにおける希望を見いだすことが出来るでしょう。コロナのせいで、私たちの信仰が枯れてしまうよりも、むしろこの時期において私たちはいただいた信仰とイエスとの係わりを振り返って、自分の信仰を強めてくださるようにイエスにお願いするチャンスとなるのではないでしょうか。
復活されたイエスは恐れと絶望の中に落ちた弟子たちに平和をもたらしてくださったように、きっとこの復活節に私たちにもその平和をもたらしてくださるのです。イエスを信じ、イエスの平和をいただく私たちはイエスの平和の道具となり、復活されたイエスの生き生きとした証人となることを決心したら…と思います。それができるならば、復活祭は儀式的で習慣的なお祝いだけでなく、私たちの信仰生活までに浸透していくのではないでしょうか。
2021年4月4日
カトリック大宮教会
司祭 谷 国定