2020/5/24 主の昇天(マタイ28・16-20)
灰の水曜日から今日まで、あっという間にほぼ3ヶ月経ってしまいました。この期間、私たちは公開ミサに与れず、共同体の親しい兄弟姉妹にも出会えなくて、自由に話せませんでした。よく考えてみれば、政府の発表した「緊急事態宣言」とさいたま教区の呼びかけに協力しながら、自粛する私たちは自分だけでなく、他人にも対する思いやりを現しているのです。感染しないことと感染させないこと。
しばらくミサに与れないことから、私たちは一日も早くミサに与り、み言葉に耳を傾け、聖体の秘跡を通して、イエスに出会い、ご聖体をいただくことを待っているでしょう。私たちがミサに与るのを望むことは当然のことです。なぜなら、ミサはイエス・キリストを信じる私たちの信仰の頂点だからです。
本日、私たちは全世界のカトリック教会と共に主の昇天の祭日をお祝いします。他の年と違って、今年は私たちは公開ミサに与れないで、沈黙のうちに、教会と共に心を合わせて、主の昇天をお祝いします。信心深くて熱心な皆様は、今までそのような経験がなかったことでしょう。「ミサに与れないし、親しい兄弟姉妹とも出会えないし、彼らと話せないし、小教区の活動にも参加できないので、とても辛い」という声を私は何回も耳にしました。
本日読まれる第一朗読の使徒言行録では、イエスは使徒たちの目の前で、天に上げられたことが記されています。
「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(使徒1・9)
苦しみを受け、侮辱され、十字架に付けられたイエスを見て、恐れた弟子たちは逃げてしまい、絶望の中で過ごしていました。しかし、傷ついた体を持つイエスが天に上げられて、彼らに希望の光を照らしてくださいました。
私たちの信じているイエスは死んでいる神でなく、生きている神です。さらに、この神は人間的な歴史を持っておられるのです。すなわち、イエスは人間の世界に入って、人間となって、私たちと同じように生活をしておられました。生まれることもあれば、死ぬこともあります。人間となられたイエスは死を逃げることが出来ませんでした。しかし、イエスは死に打ち勝ち、復活して、天に上げられました。だから、私たちは持っている信仰を誇りにすることが出来るのです。ミサに与る度に、私たちは自分の信仰を宣言することを約束します。「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで」。この宣言がミサの中だけでなく、日常生活の中にも表されることは大切なことでしょう。
本日の福音の中で、イエスが昇天されることは述べられていませんが、世の終わりまで弟子たちと共におられることが強調されています。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20b)
この言葉を通して、イエスは弟子たちに大事なことを伝えておられます。それはイエスが彼らの目の前にいないように見えますが、いつも彼らと共に歩み、共におられることです。
イエスが弟子たちと約束されたように、今日もイエスの弟子である私たちと共におられることに違いないのです。復活節に置かれた復活のろうそくのシンボルはその意味が私たちに伝わっています。昔の典礼では、主の昇天のミサの中で、福音朗読が終わると、復活のろうそくの火を消して、ミサ後それを片付けていました。しかしながら、現在の典礼規則では、復活のろうそくは復活節中そのまま置かれます。イエスが昇天されて、私たちから離れたように見えますが、私たち一人一人の近くにおられ、私たちの共同体と共に歩んでおられるのです。
現在、パンデミック拡大防止に協力して、自粛する私たちはミサに与れませんが、祈る時や聖書を朗読する時や主日の『聖書と典礼』を読む時に、イエスは私たちのそばにおられます。生活の中で、いろいろな出来事の影響を受けている私たちはイエスの約束してくださったことを忘れることもあるかもしれませんが、イエスは私たちとの約束を決してお忘れにならないのです。私たちは平穏な日々の中ばかりでなく、苦境の中でも、イエスの約束してくださったことをあえて確信し続けられますか。その問いかけをもって、本日のみ言葉を黙想できればと思います。
カトリック大宮教会
主任司祭 谷 国定